題:「他者」としてのユダヤ人 発表年月日:2006年 7月 8日
M.ルター、J.カルヴァンの宗教改革は、聖書中心主義によるキリスト教信仰復活運動だったが、ルターの聖書ドイツ語訳を始めとするラテン語から諸言語への翻訳は、共通の言語で聖書を読む集団を誕生させ、ここに聖書共同体としての言語的民族共同体による「国民」成立の暁が見られる。また、グーテンベルクの活版印刷術の発明は、プロテスタントの俗語出版市場を拡大し各諸邦での大規模な読者層による連帯感を持つ集団を、「国民」観念を生み出す拍車をかけることになる。氏名:今井夏彦(玉川大学文学部教授) さらに、M.ヴェーバーによると、カルヴァンの「救済予定説」が「世俗内禁欲」による合理的な生活組織、計画的な生産活動を呼び起こし、近代資本主義誕生の契機となり、こうして聖書へのこだわりがここでも逆説的に世俗的な「国民国家」を生むに至る。 こうして、ユグノー戦争や三十年戦争などプロテスタントとカトリックの主権争いが後を絶たない中で、T.ホッブズは『リヴァイアサン』において、「自然状態にあっては、万人に対して万人の闘争状態に陥らざるをえない」と述べ、王権神授説ではなく社会契約説による主権の設定を基礎づけ、宗教ではなく政治による「国家」の統治を促した。 カフカの『城』などの作品群において、主人公の共有する「不可能性」、「匿名性」、あいまいな「アイデンティティ」といったものは、人々が代替可能な他者同士の存在となりはてた現代の群衆の無力を象徴しているものと考えられるが、その群衆が明確に意識されるのは、上述の宗教改革、宗教戦争とつづく中で次々と国民国家が誕生し、さらにフランス革命を始めとする諸革命とそれに伴う資本主義の発展によって産業化が進んだ19世紀のヨーロッパ社会のとりわけ大都市の成立と同時と考えられる。 ヨーロッパでは、ル・ボン、タルド、オルテガなどが、「群衆」、「公衆」、「大衆」という表現でそのような近・現代人の特徴の解説を試みた。しかし、本質的にはそれぞれ同根であり、資本主義の大量生産が群衆を生み、人間の行為と思考から個性と独自性を奪い、アイデンティティを喪失した人間を排出したことは明らかである。 このように個を失くした現代の群衆のなかで、常に「見知らぬ他者」と接しながらも自らを他者化できる視点をもつユダヤ人の秀逸性については、砂漠で誕生した難解な「旧約聖書」理解への絶えまない試みと、捕囚の民としての厳しい歴史的状況を甘受する強靭な精神をその論拠として挙げたい。誤解を恐れずに極論すれば、ユダヤ人は「理性」という絶対的な他者である神に支えられた無神論者である、といえるのではないか。 |