題:都市と群衆とユダヤ文学と 発表年月日:2002年6月22日
紀元70年に離散の民となって以来、永い間、差別、迫害の対象となってきたユダヤ人は、農業などの第一次産業に就けず土地に定着できなかった。それゆえ自らの国家を持つことができず、西洋の歴史から排除されてきた彼らが再び表舞台に登場するのは、近代社会とともに大都市が誕生し、群衆がその主役になってからである。ところが、封建制や政治的絶対主義を破壊して生まれた近代社会は、自立する個人を理想としながら、同時にその理想的個人を否定するような巨大群集を生み出してしまうというジレンマを抱える。氏名:今井夏彦(玉川大学教授) ユダヤ人の聖典である『旧約聖書』は、その成立にいくつかの特筆すべきところがある。まず、背景として、一民族から王国への発展に伴う世俗化の憂慮とその王国の滅亡、さらには「バビロン捕囚」を体験し、つづいてペルシャの支配下にありながら、これが書かれたこと、次に、その内容は「ノアの箱舟」や「バベルの塔」などのエピソードに見られるように人間の驕りに対して厳しい罰が与えられていること、また、様々な点から、あえて理解を困難にさせている可能性が考えられること、さらに、神の救いなく流浪の民となりながらも、過去の事実(神がエジプトから脱出させ、カナンの地へと導いてくれたこと)を未来の希望とし、自己を厳しく抑えながら救いを待望していることなどが挙げられる。 ドイツの社会学者M.Weberによれば、ユダヤ人が絶対神ヤハウェとの契約を結んだ古代イスラエルの禁欲的な宗教倫理が、カソリック教徒の修道僧たちの「世俗外禁欲」からプロテスタント教徒の一般民衆による「世俗内禁欲」へとつながり、それが図らずも新しい経済体制を生み出した、と説明されている。そして、この体制が産業革命を経て19世紀の資本主義経済を確立させ、同時に群衆を誕生させることになる。 このような流れのなかで、例えば、20世紀のユダヤ系作家による3作品、カフカの『城』の測量士K、N.WestのMiss Lonelyhearts における新聞の人生相談欄の回答者ミス・ロンリーハーツ、P.AusterのGhosts の探偵ブルー(Blue)など、群衆の中のひとりにすぎないことを示す匿名に等しい主人公たちは、大衆化された社会における現代人の無力を象徴するようにストーリーの冒頭から途方にくれたまま何もできず、最後までそれぞれの仕事を満足にこなしていない。しかし、このことは逆に『旧約聖書』に見られるように常に自らを否定的に捉え、己を律する気持ちを忘れないことの証だと考えられるのではないだろうか。2000年の間、幾多の国々の存亡を横目でながめ、それでも異質の文明のなかにあって存続し、とりわけ、都市の群衆のひとりとして自己を見失いがちな現代でもその優秀性を失わないのは、このような絶えざる研鑚の賜物ではないだろうか。 |