題:ジャワ更紗(Batik)に見る民族文化から国民文化の変容過程 −多民族国家における国民文化形成の一つの形− 発表年月日:2006年12月 9日
はじめに氏名:戸津正勝(国士舘大学政経学部教授) 一般に、多民族国家において、ある特定の民族の伝統文化が、異なった価値観をもつ民族を超えて、国民文化にまで発展することは困難であると考えられてきた。しかし、世界有数の多民族国家であるインドネシアでは、ジャワ族の伝統的な文化として発展を遂げてきたバティック(ジャワ更紗)は、現在ではインドネシアにおける数少ない国民文化として、民族を超えて幅広く国民全体から受け入れられている。多民族国家の国民文化形成におけるこのような事例は、世界的に見ても非常に珍しいことであるが、ここでは、その変容の背景について検討する。 1.インドネシア民族的多様性と服飾文化 インドネシアは南北1880km東西5100kmにわたって散在する大小1万7千ものの島々からなる世界最大の島嶼国家である。人口は現在約2億3千万人で世界第4位の人口大国であるが、全面積の1割にも満たないジャワ島に人口の半分以上が集中している。各島々には300以上といわれる民族か存在している。これらの民族は数千年にわたる長い農村共同体社会の歴史のなかで、固有の文化を育んできたため、それぞれの地域で異なった言語や社会構造を発展させてきた。しかし、インドネシアの文化的多様性はこのような民族的多様性のみに起因しているわけではない。インドネシア各地は、その歴史の流れのなかで、ヒンドゥー文化、仏教文化、イスラム文化、西欧文化、中国文化といった外来文化がつぎつぎと到着し、土着の基層文化の上にさまざまな形で変容されたため、それぞれの地域でより複雑で多様な文化変容を遂げることになった。 ジャワ島は、ヒンドゥー・ジャワ神秘性主義の伝統の強い王宮を中心とした内陸部と、外国との交易を中心に発展を遂げてきた各諸都市を中心とした北部海岸地方という二つの異なった世界に大別できる。 (1)王宮とバティック (2)北部海岸地方とバティック3.20世紀植民地期とバティックの大衆化 19世紀から20世紀にかけてのオランダ領東インドという植民地国家形成の過程は、先に述べた、ヒンドゥー・ジャワ王国の内陸部と北部海岸地方という二つの異なった政治的・文化的世界を解体し、オランダ領東インドという新しい政治空間に再統合するという過程であった。その結果、バティックはジャワ各地域の地域文化のシンボルとしての枠を超えて、新しい政治空間に拡大する兆候が生み出される。それはまた、チャップ(スタンプ)や化学染料の導入が行われたため、安価なバティックが登場し、それはバティックの大衆化の始まりとなった。なお、1942年からの日本軍政下で、王宮は経済的苦境に落入り、そのため、王宮は貴重なバティックを庶民の間に売り出さざるを得なくなった。ここに始めて、伝統的な禁制文様が廃止されることになったが、禁制文様を着用することが庶民の間で大きなブームを巻き起こし、大衆化が一拠に加速することになった。 4.インドネシア共和国の誕生とバティック・インドネシアの成立 インドネシアは1949年に正式に独立を達成するのであるが、しかし、その民族は実態として必ずしも統一されてはいず、またひとつの国民としての一体性に基盤づけられてもいなかった。そのため、初代大統領スカルノは強力なナショナリズムに訴えることによって、インドネシアの伝統的社会のなかに根づいた「民族文化」を再発見し、それを新たに創出されるべき「国民」の全てが共有しうる「国民文化」に変容させようと試みた。そのことによって、民族的に分裂していたインドネシア人の意識なかに一体としての共通感情 と信頼関係に基づいた国民としてのアイデンティティを確立しようとしたのである。そしてそれに相応しい要素としてジャワのバティックに注目し、その文化をナショナリズムの枠組に再編成することで、国家的なレベルにまで高めようとしたのである。 |