題:横浜における港のメリー伝説の形成 発表年月日:2008年03月01日
白塗りに純白のドレス姿の老女、通称「港のメリー(以下メリーさん)」は、終戦後大勢いたパンパン(米兵相手の娼婦)の最期の一人だと言われている。彼女は、横浜の有名人であった。本発表は、彼女が受け入れられ、噂になり、はてはメディアを通して都市伝説化した理由を考えよう、というものである。以下、仮説として複数の要因を挙げる。氏名:檀原照和(裏横浜研究家) まず、開港以来、横浜が異邦人を受け入れてきた歴史である。そもそも横浜は異邦人たる外国人を受け入れるために造成された人口都市である。そこへ一攫千金を夢見て全国から集まってきた山っ気のある商人たちや流れ者たちが、街の基礎を作り上げた。1980年代初頭までは素性の知れないストレンジャーたちが健在だったため、メリーさんは違和感なく住み着くことが出来たものと思われる。 次に「都市伝説ブーム」にうまく乗ったことである。メリーさんは遅くとも昭和30年には横浜に居着いていたが、1980年代に入るまで誰も気に留めていなかった。しかし1982~3年に彼女をモチーフにした歌謡曲が一挙に五曲作られ、以後、たびたびメディアに露出するようになる(第一次ブーム)。ブームが起きた理由は不明だが、評論家・平岡正明は諜報活動説を提唱している。90年代に入ると「人面犬」「トイレの花子さん」「ドラえもんの最終回」などの都市伝説が流行し、その横浜ローカル版として再び噂話の対象になる(第二次ブーム)。以後マンガ、小説、映画などが断続的に制作された事に加え、インターネットを経由したことも相まってかなり広い地域で認知されるまでになった。 他方、横浜開港より100年間に及ぶ外国人相手の娼婦の系譜が存在していたことも大きな要因であろう。さらに付け加えるならば、幻想を仮託しやすい「港のマリー」という言葉が、ひな形として存在したことも無視出来ない。源泉はジャン・ギャバンの映画「港のマリー」だと思われるが、この作品の内容と無関係に「港のマリー」という言葉が喚起するイメージに、さまざまな噂が付加されていった。日本の経済発展に伴い、彼女が港町に立つ最後の外人専門娼婦になると、街の特性や歴史的背景の一端が、彼女に仮託されていく。 つまり「港のメリー」は一個人を超え「綿々と受け継がれてきた歴史的イメージの集成」である。しかし彼女の存在自体は、かならずしも好意的に受け入れられていたわけではない(娼婦を見下す視線の存在)。 彼女が受容されたのは、娼婦としての価値が落ちた老年期に入ってからである。町からいなくなったことでようやく受容され、ついには消費の対象にまでなった。平穏な生活を脅かしかねない異物は、毒抜きされてはじめて社会に受け入れられる。 演劇「横濱ローザ」と映画「ヨコハマメリー」の公開によって、彼女は街から公認された形となったが、いまも来歴は不明で、この映画の存在自体が、あらたな伝説をつくる装置として機能している。 |