第29回大会発表概要


題:ジャワにおける西洋化の流行
―アジアにおけるもう一つの文明開化―


発表年月日:2009年03月06日

氏名:ミヤ・ドゥイ・ロスティカ
(国士舘大学大学院 政治学専攻 博士課程)


 19世紀に入ると、西洋における帝国主義諸国家は動力機関等の科学技術の発展あるいは産業革命による新たな世界秩序の再編をめぐって勢力の拡大を求めるようになった。その影響はとくに東アジアの各地域に及ぶようになる。
 日本では、19世紀の中頃には、長い間維持してきた徳川幕府による封建的鎖国体制が明治維新と呼ばれる一大変革によって、崩壊することになった。明治時代の日本は西欧国家をモデルとしたアジアで最初の近代国民国家の形成を目指して、「脱亜入欧」を国家目標に掲げ政府主導による西洋化の道を突き進んで行くことになった。
 一方、インドネシアにおける「文明開化」は、日本よりも早く19世紀初頭から始まる。しかし、それは「オランダ領東インド」の宗主国であったオランダ本国の植民地政策」の転換によるものであった。そのため、インドネシアにおける「文明開化」の波はジャワを中心とした一部の地域に限られ、その変革はオランダの植民地支配にとって利益があるという前提の下で慎重に実施された。
 そのため、ジャワにおける「西洋化」の動きは非常に不徹底なものであり、その変化が及んだ範囲は、一部のオランダに親近感をもつエリート層に限られていた。それにもかかわらず、この新しい西洋化の波が当時の東インド社会に与えた政治的、文化的影響はオランダが予想していた以上に大きな波となって20世紀に入ると東インド社会全体に広がっていったのである。そして、それは最終的には、民族主義の目覚めという結果を生み出し、独立へ道を開く重要な要因となったのである。
 オランダ領東インドにおける西洋主義の流行は、以下に見られる。

     
  1. 服装
     男性の服装においてはズボン・背広・蝶ネクタイ・靴下・靴などの着用である。原住民の警察官・役人は制服として、また知識人の間でも西洋化の服装が流行した。原住民の上流階層の女性の間ではドレス・スカート・ストール・レースなどを着用することが流行した。
  2.  
  3.  オランダ人工房で作られた花文様の更紗のオランダバティックである。
  4. 音楽・楽器
     インドネシアの西洋化された音楽といえばハワイの音楽に似たようなオランダ領東インドの大衆的な音楽のクロンチョンである。クロンチョン音楽で使用されている楽器はギター、ヴァイオリン、フルート、打楽器、ピアノなどという西洋化された楽器である。
  5.  オランダ領東インドで使用された4頭立ての馬車。この4頭立ての馬車は西洋でよく使われた馬車と同じ形である。
  6.  風景画
     ジャワの社会はイスラム教社会であるため、風景を描くことや飾ることは禁じられていた。しかし、オランダ人の家では風景画がよく飾ってあり、オランダ人向けの風景画が商品化されていた。
  7.  家・家具(調度品)
     オランダ式の家にはいくつかの部屋が存在し、豪邸が特徴である。家の中には風景絵画・写真などが飾ってあり、他の家の部分にはピアノ・棚・ランプなどが飾られた。ジャワの家では今ではこのような物が一般的に飾ってあるが、当時のジャワではこのような家のスタイルやインテリアがなかったのである。当時のジャワではお風呂場やトイレがなく、その代わりに川を使用していた。しかし、19世紀、貴族階級の家において、バズタブ(Bath Tub)がすでに一般的に使用されていた。現代のインドネシアでは食器の使用が普通になっているが、この食器も西洋化された物の一つである。
  8.  一夫一婦制
     伝統的なジャワの社会において、とくに貴族階級では一夫多妻制は一般的であった。しかし、次第に一夫一婦制が一般化していくようになる。
  9.  西洋的な食事
     オランダ領東インドにやって来たオランダ人は自分の生活習慣や文化を持ち込んだのである。パンを食べる習慣、お茶・コーヒーを飲む習慣などは、現代インドネシアでは一般化されているが、当時のオランダ領東インドでは贅沢であった。または、ビールやワインなどのお酒を飲む習慣は当時の貴族階級には流行になっていたのである。
  10.  西洋化された挨拶の仕方
     現代インドネシアの若者やお金持ちの間では、頬っぺたを合わせてお互いに抱き合う挨拶の仕方が流行っている。

 「文明開化」以前には、地理的にも言語的にも分断され、それぞれの民族や地域に分かれ孤立して住んでいたオランダ領インドの人々に、まさにこの西洋化は、「インドネシア人」としての一体感を持たせる働きをしたのである。つまり、交通網の整備や新聞雑誌、さらには通信網の整備などによる西洋化は、それまでばらばらであったオランダ領東インドの人々に、インドネシア人としての一体感を生み出すようになっていく。それは、今日のインドネシア人としての国民意識の形成の基盤を作り上げる役割を果たす結果になってもいえる。
 西洋化の洗礼を、知事である父のもとでの生活で、そして、オランダ人学校に通うことでまともに受けたのが、インドネシア独立の英雄のひとりとして顕彰されているカルティニである。そのカルティニがオランダの文通仲間に出した手紙をまとめた本が『ヤミからヒカリへ』(日本語訳:光りは暗黒を越えて)である。「ヤミ」が意味するのは伝統社会であり、「ヒカリ」は西洋化(近代化)と解釈できる。それは西洋化することによって新しいインドネシアを作るべきだという考えに基づくものであった。伝統社会の中で教育からも排除され、男性に対して低い地位に置かれていた女性の自立と解放を、女子教育を通じて実現しようとしたのである。そしてそれは、宗主国オランダの植民地にあった祖国インドネシアの独立を求めるものでもあった。まさに「ヤミからヒカリ」へは、女性の自立と祖国の独立を重ねての表現であった。その考えはカルティニが亡き後、インドネシアの独立運動を指導するブディ・ウトモに受け継がれていった。それは日本では、明治の頃「和魂洋才」がさけばれたが、インドネシアにおいても「イン魂洋才」を訴えた人々であった。




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