題:「記号表現における人工的身体の表象分析 ― 石ノ森章太郎『サイボーグ009』を中心として」 発表年月日:2011年12月03日
手塚治虫の『鉄腕アトム』(『少年』1951・4〜68・3。1951・4〜52・3の期間は『アトム大使』)以降、マンガにおいて連綿と描かれ続けてきたロボットは、身体性をめぐるせめぎ合いを体現する存在として表象されてきた。それはロボットという表象自体が、マンガ表現における人型―人であるような表象、記号=「キャラ」―の性質を体現するものであったからに他ならないが、手塚治虫は、『鉄腕アトム』などの作品において、マンガの身体を記号に留まるものとして位置付けていく一方で、『地底国の怪人』(不二書房、1948・2)などの作品では、〈科学信仰〉という戦後の〈大きな物語〉を背景に、身体性を意識的に導入していった。これは一見矛盾する図式のようであるが、作中で執拗に「不完全」な存在―「ロボット法」―として位置付けられ、そこで「完全」さを憧憬していくアトムは、言い換えれば、その裏側に透けて見える、〈そうでないもの〉としての「完全」な身体―生身の身体―という幻想の概念を立ち上げていくものでもあった。氏名:山田 夏樹(玉川大学) また、手塚治虫作品における身体性の導入とは、具体的には、戦時から引き継がれた「兵器リアリズム」の暴力性を自覚し、抑止するための「死にゆく身体」が描かれることで為されるものでもあった。そして横山光輝『鉄人28号』(『少年』1956・7〜66・5)も、当初の構想ではそうした方法を反復するはずであったが、結果的に鉄人28号は原子力を想起させるエネルギーを動力としながら日本の「正義」のために戦う存在となったのであり、そのように「兵器リアリズム」、暴力性が作中で顕在化していく展開は、操縦者の少年・金田正太郎の身体性を徐々に希薄化させていく―武装する少年=〈成長〉という身体性の不要―こととなっていった。 このように、原子力の利用方法に象徴される〈科学信仰〉の両義性の中で、マンガの登場人物は〈記号/身体性〉という図式を容易に揺れ動いてしまうのであるが、手塚治虫が拘泥したそうした図式の区分自体に疑義を示したのが、石ノ森章太郎『サイボーグ009』(『週刊少年キング』1964・7・19〜65・9・19。他掲載誌多数)である。作中において、身体の「半分」が「機械」と表現される「サイボーグ」の存在は、マンガという記号表現の両義性を体現するものであり、〈記号/身体性〉という区分が流動的なものに過ぎないことを明示するものとなった。つまり、本来「人間」であった存在が「サイボーグ兵士」に改造されたという前提は、〈「兵器リアリズム」と武装する少年〉という鉄人28号と金田少年の関係性を一体としてあらわすものであり、冷戦期における宇宙開発、宇宙植民の思潮を背景に開発された、原子力の隠喩としての身体を明示するものとなったと言え、また、同時にそれは、〈科学信仰〉を背景に身体性を有するかのように描かれてきたマンガ表現における「人間」の存在が、実際には、その〈科学信仰〉への疑義―核戦争の前景化―が提示されるともに、「サイボーグ」という両義性、流動性を顕在化させるものであるということをもあらわしていった。 |