題:反ジェントリフィケーション運動と『レント』、『アメリカンサイコ』、『ファイトクラブ』 発表年月日:2013年09月28日
「ジェントリフィケイション」とは都心部にある労働者階級や無人地帯が中流階級の住宅地や商業地域に再開発されていくプロセスのことをいう。そしてこうした再開発地域に流入してくる中流階級を「ジェントリファイアー」という。80年代に、このプロセスが原因で都心部の家賃が上昇したり、あるいは収入の低い住民が追い立てられていることが理解されるようになると、ジェントリフィケイションに対する反対運動が高まっていく。氏名:越智敏之(千葉工業大学) 反ジェントリフィケイション運動の高まりに呼応して、その運動を描いた作品がジャンルを越えて発表されるようになる。しかし、それらの作品のなかには、ジェントリフィケイションに反対する立場を取りながら、ジェントリフィケイションに関わる政治的な態度に混乱が見られる作品がある。今回の発表ではそうした作品として、American Psycho (1991)とThe Fight Club (1996)を取り上げ、やはり反ジェントリフィケイション運動をテーマにしながら、政治的な歪みが見られないRent (1996)と比較しながら、その政治的な歪みの原因について考察した。 結論を言ってしまうと、反ジェントリフィケイション運動のなかで、ジェントリファイアー=ヤッピーというスタンスが取られ、このスタンスを作品が取り込んだ程度に応じて、作品中の政治的な歪みが増大する。工業化社会から脱工業化社会への移行は、経済活動の主役の労働者から専門職への変化を意味している。すなわち後者がジェントリファイアーであり、新しい主役を嫉妬の目で見た場合はヤッピーとなる。しかし専門職になるには高い学歴が必要で、つまりは大学への進学が不可欠なため、学生時代にリベラルな政治思想にふれた彼らは卒業後もその傾向を維持するところがある。また、脱工業化社会が本質的に能力主義であるため、性別の上でも人種の上でも、工業化社会の労働者よりはずっと多様性を持っていた。ところが従来のリベラリズムは工業化社会のなかで生まれたものであり、脱工業化社会という新しい環境に対応しきれていない側面がある。新しい時代における政治のこうした複雑さを単純化する装置として、ジェントリファイアー=ヤッピーというスタンスが反ジェントリフィケイション運動で採用されたわけだが、そのためこのスタンスを作品に取り込むと、どうしても政治的な混乱が作品に生まれてしまう。 たとえばAmerican Psychoでは、ジェントリフィケイションの主体としてのヤッピーとジェントリフィケイションにおける白人男性の優位性の喪失という二つのテーマを追いかけたため、主人公の連続殺人の背後にある動機に政治的な混乱が見られる。それに対して、Fight Clubは白人男性の優位性の喪失だけに絞っている。そのため、主人公の反ジェントリフィケイション運動の動機それ自体は明確だが、実際にはリベラルの立場を取る反ジェントリフィケイション運動を、作品のなかでは「ファイトクラブ」の精神を工業化社会時代に蔓延した父権的温情主義に置くことで、とてもではないがリベラルとは言い難いものにしてしまっている。 上記のような混乱は、脱工業化社会の進化により生まれてきた新たな抑圧者=エリート層に対抗する世界観を、リベラルが確立できていないことが背景としてあるのではないだろうか。 |